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更新が滞ってるときはブログくらい書こう。

今年は「儀式と復活」というテーマでやってきたけれど、なかなか作品という形にできなかった難しいテーマだった。
復活の前に死があって、死についても結構考えたけれど、復活という概念になるとそのC難度の飛躍に、掴めそうで掴めないまさに神秘性を感じた。だてにキリストしかやってないだけのことはあった。
つまり昨日の自分と今日の自分は違うというレベルとはやっぱりなにかが違うということだった。
死というテーマは扱いやすい。そこからいろいろなことを想起できる。が、復活はその比ではなかった。いつか分かる日がくるだろうか。

政治についてだけど、僕は自衛隊もいらないと思う。他国に侵略されるなら侵略されたらいいと思う。だってその国の人も同じ人間だから、僕らが彼らより特別生き残らなければいけない理由はない。人類はどっちに向かっているの? 人類同士信じあう方向か、線をひいて外交戦略によって共存する方向か。軍事力を放棄して、他国を信じることは、これから人類が向かうべき正しい方向だと思う。それを誇りと信念をもって実行するのなら、世界になんと言われようと、僕は日本って素晴しいなって心から思える。
これはかなりラディカルな意見だから、多くの人の賛成も得られないだろうことは分かっている。だから僕はほおづえをついて壁を見つめるしかない。なにかを待つように、どこかで少し怒って。
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同情できないレベルの犯罪を犯した人間がいるとして、仮に彼(もしくは彼女)=Aが心から自分の罪を後悔し、改心したとして、僕らはそれをどのように判断すればいいのだろうか?
もしAが本当に誠実に自分の罪を認めたとすると、Aは被害者に同情し自分で自分を許してはいけないと思うかもしれない。この場合、Aは当然他の人からも許されるべきではないと考えて、自分が改心しているということを主張することはない。

もし罪を許すことができるとすると、こういう誠実さを確認できたときだと思うけれど、しかしこの場合僕らがいくら許そうが、Aの心は許されることはないだろう。ということは許すことは不可能なのか?

じゃあ人が「反省してないので許せない!」と怒ったりするのは、そもそも「お前が自分自身で罪の意識で苦しむような状態にならなければ、安心して許せないじゃないか!」ということなのか? だとしたらすごくむなしい。

僕はよく反省したりして、そういう泥沼に陥る。「反省したから許して~。ごめんね~」って言える性格が欲しい。

ちなみにこの性格、長男であることがすごく影響してると思う。
前回の文章で逡巡することが大切なのかも、と書いたけれど、ツイッターでアジカンの後藤さんが、「いまは思うよりもともかく行動することが大事なのでは」と書いていて、それを読めばそうなのかもなぁとも思う。それほどに逡巡には強度がない。だって迷っているんだもん。
ただ言えることは、迷っている人は人は殺さない。でも逆に何も決めない。下手したら流されてしまう。胸をはって誇れるようなものではなさそう。さてどうしたものか?

僕は今日「悪」について考えてみたいんだけれど、その前に面倒くさい話をしなくてはいけない。これは人に話して伝わった確率0%だからすでにすごく気が重い。
それは、僕たちは本当に何かを決めているか?ということについてなんだけど、みなさんはどう思いますか? 基本的に僕たちは物事を決断して生きているということになっているけれど、僕はあるときよく考えてみて、もしかしてそうじゃないんじゃないかと思ったんです。(問題提起から我ながらやばさを感じる・・・)

たとえば今日この文章を書いていることも、僕はよしブログを書こう!と思って書き始めたわけだけど、「よしブログを書こう!と思おう!」と思ったわけではなくて、それは突き詰めれば、「よし、ブログを書こうと思おう!と思おう!」と思ったわけでは当然ないということで。思考の元の元をたどっていけば、僕らはおよそ無意識になにかを考えた気にさせられているとしか思えない・・・。さて、さぞ「まじこいつ何を言ってるんだ?」と思っていることと思いますが、ともかく僕らは本当になにかを考えるということができるんだろうか? 考えることというのは条件反射のような性質があって、考えることをあらかじめ“考えておくこと”はできないのでは?ということなんです。僕はこれを思いついた時、まじ大発見だ!と思った。そして、なんだ自分の失敗もなにもかも、僕のせいじゃないんだと思ってすごく救われた。

さて、それで「悪」について考えてみると、たとえば殺人を犯した人がいるとして、なぜその人は殺人を犯したんだろうかと考えると、その人のなかには人を殺すか殺さないかという選択肢があって、殺すを選んだということなんだと思う。けれど、なぜその選択肢を思いついたのか? その選択肢はどこからきたのか? きっとその人は、僕は将来人を殺すか殺さないかを考えるような人生を送ろうと思って生きてきたわけではなくて、ありときふと選択肢が目の前にあって、そして殺すほうを選んだんだと思う。ではやはりなぜその選択肢があったのだろうか? 人は自ら自分の思考をクリエイトすることができるのだろうか? もしできないとしたら、その人は本当に悪なのか? 僕はなぜ人を殺そうと思わないのか? 僕がその人とまったく同じ人生を歩んでいても、僕は人殺しをするような人間にはならないと言えるだろうか? もし仮にそれが言えないとするならば、(僕は言えないと思うけれど、)僕はたまたま殺人者ではなかったということでしかないのではないだろうか? そしてくじ引きをひくように、この社会には一定数のひずみがあって、だれかはたまたま人を殺してしまうのではないだろうか? だとしたら僕らは悪を憎めるのか? 僕らはなにか努力をして、悪を克服したのだろうか? 偶然ではなく必然だと言えるなにかがあるだろうか?

いじめの問題があって、どんな原因があれいじめをした側は絶対に許してはいけないとよく聞くけれど、僕はいじめをした人たちを憎めない。憎みたいけれど憎めない、それは僕かもしれなかったのだから。だって原因はかならずあって、原因がある以上、僕は憎めない。
反対の側に、いじめれて死を選ぶ人がいて、どんなにつらくても死を選んではいけないということもよく言われるけれど、辛くても死を選ばなかった人というのはそういう人であったということで、辛くて死を選んだという人は、やはり死を選んだ人なのだと思う。死を選ぶという可能性がある以上、やはり何割かは死を選ぶ人がいるんだと思う。その人たちはどういう人かなって思うと、僕はきっと繊細で世界は美しいと願っている人だと思う。理不尽な世界を受け入れられないような、ある意味頑固で優しい人だと思う。僕はその人にむかって死を選んだことはあなたの間違いですとは言えない。あなたのような人が生きていける世界でなくてごめんなさいとしか僕には言えない。

では、僕たちは「悪」についてどう考えなくてはいけないのだろうか? 仮に僕らが正しかったとしても、僕らの可能性として「悪」はあって、それはつまり「悪」は僕らだったのかもしれなくて、それについて僕らは考えなくていけないと思う。
だが許す。すごく憎い、許せない、だが許す、しかないと思う。

テレビを見ていると「許してはいけない」が主流のようだけど、「許すこと」についても考えてみたい。だって許すことができるのは被害者だけで、そこにはきっとすごく深いものがある。北朝鮮が核ミサイルを打って日本がなくなってしまった。中国が日本なんか足元にも及ばないくらい経済発展をとげて、日本は中国の属国のようになってしまった。無差別殺人によってあなたの家族が殺されてしまった。

だが許す。それってどういうことだろうか?

※とりあえず当初思っていたよりもずいぶん陰気臭い文章になって泣いてます。悲しい。
危険を知りながらお金のために原発を推進した人を僕たちは批判するけれど、僕にはどうしてもそれができない。もちろんテレビを見ながら、怒ったりするんだけれど、いつも思考のどこかでひっくり返って裏返る。

現代はすでに飢餓を克服したらしい。世界中から飢餓をなくすだけの食糧を僕らはきっと一つの都市で作り出すことができる。でもどうしてそれが行われていないだろう。
なぜ日本はある程度豊かで、そうでない国はそうでないのだろうか。僕らはそうなれるだけの価値があって、そうでない国にはそうなるだけの責任があるのだろうか? もしそれが資本主義経済のシステム的欠陥だとしたら、そのシステムのなかで勝ち組を演じ、食べたいものを食べ、好きなことをして遊んでいる僕たちは、そうでない国の誰かを殺しているのではないだろうか?
何十年後かの未来で、僕たちは利権のために原発を推進した人たちと同じように、きちんと正確に批判されるのだろうか?そのパンをくれれば命が助かると知っていて、あなたはそのパンを食べていましたよね?と。

僕が贅沢のために買ったプリンやアイスで、一人の救えたかもしれない命があることはもはやほとんど事実で、レンタカーを借りて写真を撮りに出かけるのをやめれば…。だから僕はそれを知っていて、いまも誰かを殺している。

原発を推進した人たちと、僕は話をしたらきっと馬は合わないだろうけど、僕のなかにも同じ考えは小さくともたしかにある。僕は見知らぬ誰かよりも、友達や家族が得をすれば少しだけ嬉しいし、見知らぬ誰かが何人も死ぬことになっても、弟や妹に生きていてほしい。実際そう行動するかどうかではなくて、そういう気持ちがたしかにあって、僕のなかにもたしかにあるのなら、それを行動にうつす人はきっとどこかにある一定数存在すると思うのだ。生物学的に考えれば、それはたまたま僕ではなかったけれど、僕だったかもしれないということだ。


「知らないことが罪」という言葉があって、僕はこの言葉がすごく嫌いだ。僕らは誰を助けられるだろうか? そこには近さと遠さの問題がある。僕らは世界を同時に救うことはできないから、より近い人を助けることしかできない。自分にとって近さとはなにか、考えなくてはいけない。けれどワンコインで救える命があって、エアコンのスイッチをOFFにするだけで救える自然があることを知らないことがいけないことだと、僕は思えない。そうじゃなければ、僕らは罪だらけになって、一生を贖罪にあてなければいけない。

いつもうまく言えないけれど、僕が言いたいのは、つまり僕はいまも誰かを殺しているかもしれないけれど、でもそれは悪いことじゃないということ。

みんながハンバーガーを食べるのをやめれば、アマゾンの森林伐採を止められるのだとしたら、僕はただちにみんなにハンバーガーを食べさせないように運動をしなくてはいけなくて、その時点で映画を撮る夢を捨てるかどうかを選ばなくてはいけなくて、でもその間にも性差別によって苦しむ女性たちがいて、飢餓で死んでいく人々がいて、絶望のうちに自殺してしまう人々がいて、知らないことが罪とはどういう意味だろう?

僕には選べない。自分の人生をなにに充てて死んでいくのか、僕には選べない。
僕もしばらくそんな馬鹿げたことがと思ってなかなか口に出せなかったけれど、いまではこう思っていて、それは何かを決めることよりも、逡巡することのほうが大事なんじゃないかなってこと。逡巡。ほんとうに重要な問題には答えはないから、僕らは立ち止まり、さまざまな可能性を考え、ときに罪の意識にさいなまれながら、逡巡する。なにも決められずたしかなことも言えずに。

考えて考えて、いつも結局答えはでない。人は美しいと誰かが言って、僕もそうだなと思うから、誰も悪くないんじゃないかと思う。もし誰かが悪いのなら、それは僕らも悪いのだ。だってその悪は僕らの一つの可能性なのだから。人の可能性なのだから。

“あなたはそれを美しいと言ったよね?”
おにぎりがおいしい。仕事の昼休みに食べるおにぎりがおいしい。

お米のうまみ。お米のうまみはつまるところ甘みだなって思う。

おにぎり甘いよ。おいしいよ、おにぎり。

なんだこの日記は・・・
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