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ハクリヨクコが死んだので自由だ。嬉しい。
あとperfumeの新しい衣装が可愛くて嬉しい。
写真を撮っているとお金がなくなるし、お金を貯めようとすると写真が撮れない。こんな簡単なジレンマにかれこれもう5年ははまり続けている。そしてやっとのことで撮っている写真はぴったりなんの役にも立っていない。それなのにまったく写真をやめるつもりはないし、反対に地球から存在が抹消されてしまうという様子もない。変だ。生きていていいのだろうか? 僕は何かに対して究極的に怒っていて、だからこんな無意味な作業を繰り返しているのだろうか? 別に役に立ちたいなんて思っていないんだ。
写真家という職業がもし成立するのだとしたら、僕はその辺の写真家よりも価値のあることをしているつもりだ。でも写真って意味あるの?ともよく思う。
見てくれる人がなんとなく記憶に残って気になったり、たまに見てそしていつしかそれが思い出になっていくようなことが、僕にとっては唯一の価値だ。そういうものになれば良いなと思っている。
あとperfumeの新しい衣装が可愛くて嬉しい。
写真を撮っているとお金がなくなるし、お金を貯めようとすると写真が撮れない。こんな簡単なジレンマにかれこれもう5年ははまり続けている。そしてやっとのことで撮っている写真はぴったりなんの役にも立っていない。それなのにまったく写真をやめるつもりはないし、反対に地球から存在が抹消されてしまうという様子もない。変だ。生きていていいのだろうか? 僕は何かに対して究極的に怒っていて、だからこんな無意味な作業を繰り返しているのだろうか? 別に役に立ちたいなんて思っていないんだ。
写真家という職業がもし成立するのだとしたら、僕はその辺の写真家よりも価値のあることをしているつもりだ。でも写真って意味あるの?ともよく思う。
見てくれる人がなんとなく記憶に残って気になったり、たまに見てそしていつしかそれが思い出になっていくようなことが、僕にとっては唯一の価値だ。そういうものになれば良いなと思っている。
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『Memories』を見にホームページを訪れてくれる人がいて嬉しいです。
カウンターの数字でしかわからないけれど、今までで一番見てもらえたんじゃないかと思う。自分でもたまに覗くけれど、見るたびにほかの人が撮った写真みたいに見えるところが、とっても嬉しい。
最近は星野道夫さんの本をかばんに入れて持ち歩いている。星野さんの文章は澄んでいて、優しい。ー50℃にもなるアラスカの冬が、寝袋につつまれて、あたかも暖かく気持ちの良いもののように感じられる。広大な大地のなかで偶然にしか出会うことのできない何万頭というカリブーの群れの季節移動、文明の流入によって急速に変化していくインディアンやエスキモーの生活と文化、史上最後の飾りものでも資料でもないトーテムポールが朽ち果てていく姿。今度はなにを話そう、僕にどんなことが語れるだろうか、文章の前で思案してくれている星野さんの姿が見えるようなところも好きだ。慎重に、立ち止まって考えることができる。そこに優しさを持てるということはなんと素晴らしいことだろうか。
考えている時間にこそ、その人らしさがあるような気がする。それはなにを成したかよりも、神聖で不可侵な“私”であり、“誰か”である。僕は“私”のなかに未知の部分を見つけたり、決して知ることのできない“誰か”を大きく掴まえたりすることが好きだ。
話がそれちゃった。
星野さんはなぜアラスカに惹かれたのだろうか? そうした運命のからくりについては、きっと誰にも分からない。星野さん自身も分からない。ただそれを感じることができ、声をきくことができただけなのだと思う。けれど、星野さんにとってきっとアラスカは近かったんじゃないかなと思う。アラスカが近いというのは僕たち日本人の感覚としては普通ではないけれど、星野さんにとっては身近でなによりもまず愛すべきものであったのだ。人にはみんな、どうしてかわからないけれど身近に感じるものというのがあるんじゃないかと思う。それは幼少期の記憶やトラウマや、心理学的な説明も超えた何かだと思う。
アラスカを抱きしめる方法として写真家を選んだ星野さんのような気持ちで、僕も写真を撮りたい。何を撮るかは、ほとんどすべてで、そして結局は何を撮っても同じなのだ。僕にとっては限りなく身近で、愛すべきもので、そして同時に不思議に満ち溢れているものたちを、カメラをもって踊ってまわりたい。そしていつか振り返って、ああ自分もたしかに生きていたんだなと思いたい。そんな風に友達や景色を撮れたらいいなと思う。
最近うちに妹が彼氏と飼っていた猫がいます。しばらく預かっている。お腹をぺたーっと床につけて、太った棒のようになるところや、憧れるように外をじーっと眺める姿がなんとも言えず可愛らしい。猫は机や押し入れだと思っていたところが、飛び乗り、歩き回れるところなんだと教えてくれるので、見慣れた家のなかが違ってみえる。そういうところもとても素敵だなぁと思う。のんちゃんと呼ばれているその猫を見る視線に、ポポを見ていた自分を思い出して、そういうところもとても嬉しい。
星野道夫さんの本まだ全部読んだわけではないけれど、『旅をする木』というエッセイが、すべての篇が美しく思慮に満ちていておすすめです。
カウンターの数字でしかわからないけれど、今までで一番見てもらえたんじゃないかと思う。自分でもたまに覗くけれど、見るたびにほかの人が撮った写真みたいに見えるところが、とっても嬉しい。
最近は星野道夫さんの本をかばんに入れて持ち歩いている。星野さんの文章は澄んでいて、優しい。ー50℃にもなるアラスカの冬が、寝袋につつまれて、あたかも暖かく気持ちの良いもののように感じられる。広大な大地のなかで偶然にしか出会うことのできない何万頭というカリブーの群れの季節移動、文明の流入によって急速に変化していくインディアンやエスキモーの生活と文化、史上最後の飾りものでも資料でもないトーテムポールが朽ち果てていく姿。今度はなにを話そう、僕にどんなことが語れるだろうか、文章の前で思案してくれている星野さんの姿が見えるようなところも好きだ。慎重に、立ち止まって考えることができる。そこに優しさを持てるということはなんと素晴らしいことだろうか。
考えている時間にこそ、その人らしさがあるような気がする。それはなにを成したかよりも、神聖で不可侵な“私”であり、“誰か”である。僕は“私”のなかに未知の部分を見つけたり、決して知ることのできない“誰か”を大きく掴まえたりすることが好きだ。
話がそれちゃった。
星野さんはなぜアラスカに惹かれたのだろうか? そうした運命のからくりについては、きっと誰にも分からない。星野さん自身も分からない。ただそれを感じることができ、声をきくことができただけなのだと思う。けれど、星野さんにとってきっとアラスカは近かったんじゃないかなと思う。アラスカが近いというのは僕たち日本人の感覚としては普通ではないけれど、星野さんにとっては身近でなによりもまず愛すべきものであったのだ。人にはみんな、どうしてかわからないけれど身近に感じるものというのがあるんじゃないかと思う。それは幼少期の記憶やトラウマや、心理学的な説明も超えた何かだと思う。
アラスカを抱きしめる方法として写真家を選んだ星野さんのような気持ちで、僕も写真を撮りたい。何を撮るかは、ほとんどすべてで、そして結局は何を撮っても同じなのだ。僕にとっては限りなく身近で、愛すべきもので、そして同時に不思議に満ち溢れているものたちを、カメラをもって踊ってまわりたい。そしていつか振り返って、ああ自分もたしかに生きていたんだなと思いたい。そんな風に友達や景色を撮れたらいいなと思う。
最近うちに妹が彼氏と飼っていた猫がいます。しばらく預かっている。お腹をぺたーっと床につけて、太った棒のようになるところや、憧れるように外をじーっと眺める姿がなんとも言えず可愛らしい。猫は机や押し入れだと思っていたところが、飛び乗り、歩き回れるところなんだと教えてくれるので、見慣れた家のなかが違ってみえる。そういうところもとても素敵だなぁと思う。のんちゃんと呼ばれているその猫を見る視線に、ポポを見ていた自分を思い出して、そういうところもとても嬉しい。
星野道夫さんの本まだ全部読んだわけではないけれど、『旅をする木』というエッセイが、すべての篇が美しく思慮に満ちていておすすめです。
もう少し、あと少しで、写真のレッスンから解放される気がする。
この亀のような歩みを呪ってしまいたい。
写真がうまく撮れるようになったら、いっぱい撮りたいものがある。
そしてもう写真のことはあんまり考えず、物語のことばかり考えられるようになるかもしれない。
そうなったらますます楽しい。
僕のなかには順番があって、魂があって、カメラがあって、対象があって、写真がある。写真があって、モンタージュがあって、物語があって、映画がある。魂とカメラと対象とモンタージュについてはなんとなく分かってる。だから、もう少しで写真が撮れるし、少し背伸びをすれば映画も撮れる。
もう一つの順番は、自分があって、家族があって、友達があって、世界の人々がある。順番に納得していきたいし、できることなら手を差し伸べたいって思ってる。
この亀のような歩みを呪ってしまいたい。
写真がうまく撮れるようになったら、いっぱい撮りたいものがある。
そしてもう写真のことはあんまり考えず、物語のことばかり考えられるようになるかもしれない。
そうなったらますます楽しい。
僕のなかには順番があって、魂があって、カメラがあって、対象があって、写真がある。写真があって、モンタージュがあって、物語があって、映画がある。魂とカメラと対象とモンタージュについてはなんとなく分かってる。だから、もう少しで写真が撮れるし、少し背伸びをすれば映画も撮れる。
もう一つの順番は、自分があって、家族があって、友達があって、世界の人々がある。順番に納得していきたいし、できることなら手を差し伸べたいって思ってる。
そういえば・・・。前の前の前の日記で予告だしたのに、そのことにまったく触れていないという・・・。でももうそんなに書く意味がないので、たたみますね。別に冗談で予告したわけじゃないんだけど。
今日は3年間放置されていた祖母の家の庭を片付けに行ってきました。あきる野市にあって、都内だけど結構遠い。高速がスムーズに走ればそこそこ早い。
庭に一歩足を踏み入れると、季節はもう新緑というよりは夏のよう。いまにも虫たちがわっと踊り出してきそうな気配。バケツに溜まった水からは明日にでもボウフラが湧きだしそうな気がする。ちょっと前に下見していたこともあり、分かってはいたけど、庭はともかくボーボー。足の踏み場もない。3年前に祖母がなくなったタイミングで、植木屋さんにほとんどの木を切ってもらっていて(僕はすごくがっかりしたのですが)、その切った木片が庭中に敷き詰められている、そしてその間から草や木がぴゅんぴゅんと伸びてきているという状態。造園のバイトをしているから、仕事モードで入ればなんてことはないけど、私服にスニーカーだと「かなりヤバイ」と思わせる域に達している。
片付けるのにもう1日はかかるし、ならべて積み上げた木片もすでに3つの山になってしまっている。
唯一残されているしだれ梅がおばけのようになっていて、これも剪定してすっきりさせたい。
父親はこの土地を売ってしまおうと思っている。そのお金をうまく運用したほうが、空家をほったらかしにしておくよりはよっぽど経済的である。止めたいが、僕には説得するだけの財力がない。
どんなにボロボロでもこの家が好きなんだけど。庭も。木がまるでなくなってしまっても。
たまに飛んでくる足長蜂が怖かったけど、たとえ片付けでも植物に触っている仕事は苦にならない。結構楽しい。新しくこんな庭にしたいなとか考えたりして。夢のようだ。
祖母が生きているうちにもっと同じ庭を見たかったのに。どうしてそうしなかったんだろう。もう戻れないから、この気持ちは後悔の渦のなかをいつまでも回り続けるしかない。後悔は悲しい。
この庭が売られてしまったら、10年後の僕は「なぜあのとき・・・」と後悔するのだろうか??
今日は3年間放置されていた祖母の家の庭を片付けに行ってきました。あきる野市にあって、都内だけど結構遠い。高速がスムーズに走ればそこそこ早い。
庭に一歩足を踏み入れると、季節はもう新緑というよりは夏のよう。いまにも虫たちがわっと踊り出してきそうな気配。バケツに溜まった水からは明日にでもボウフラが湧きだしそうな気がする。ちょっと前に下見していたこともあり、分かってはいたけど、庭はともかくボーボー。足の踏み場もない。3年前に祖母がなくなったタイミングで、植木屋さんにほとんどの木を切ってもらっていて(僕はすごくがっかりしたのですが)、その切った木片が庭中に敷き詰められている、そしてその間から草や木がぴゅんぴゅんと伸びてきているという状態。造園のバイトをしているから、仕事モードで入ればなんてことはないけど、私服にスニーカーだと「かなりヤバイ」と思わせる域に達している。
片付けるのにもう1日はかかるし、ならべて積み上げた木片もすでに3つの山になってしまっている。
唯一残されているしだれ梅がおばけのようになっていて、これも剪定してすっきりさせたい。
父親はこの土地を売ってしまおうと思っている。そのお金をうまく運用したほうが、空家をほったらかしにしておくよりはよっぽど経済的である。止めたいが、僕には説得するだけの財力がない。
どんなにボロボロでもこの家が好きなんだけど。庭も。木がまるでなくなってしまっても。
たまに飛んでくる足長蜂が怖かったけど、たとえ片付けでも植物に触っている仕事は苦にならない。結構楽しい。新しくこんな庭にしたいなとか考えたりして。夢のようだ。
祖母が生きているうちにもっと同じ庭を見たかったのに。どうしてそうしなかったんだろう。もう戻れないから、この気持ちは後悔の渦のなかをいつまでも回り続けるしかない。後悔は悲しい。
この庭が売られてしまったら、10年後の僕は「なぜあのとき・・・」と後悔するのだろうか??
多くの人が10代のうちに、遅くとも20歳そこそこで片をつけている問題にこの年までかかってしまった。
家族の問題。
でも去年から今年にかけて、もう片がついたんだと思う。問いは隅々まで洗い出され、なんというか結局は水に流されてしまった。
あらためて整理をしてみると、前に付き合っていた人はもうすぐ結婚してしまうし、大好きだった祖母と飼い犬は死んでしまった。家族の問題というのはつまり自分の問題で、いまから思えば僕はずっとアップアップしていたし、時間の流れにいつも遅れているような気がしていた。それもこれもすべては自分の考えの子供っぽさからくるものだと思うと、わざわざ書くこともはばかられるほどに情けないことだけど、すぎたことは仕方がないと諦めるしかない。ありえないほどの時間がかかってしまったことも。
ともかく「ど」がつくほどにパーソナルな問題を20年あまりかけて解決してみたら、愛すべきはずだったものはみんな思い出になっていたということだ。
でもとにかく追いついた。少し前を進んでいた時間に。今日部屋を模様替えしながら、そうなのだと気がついた。
そうしたら少しだけ、去っていく時間が惜しくなっている。
できるだけ見ていたいし、忘れたくないと思っている。
こういう気持ちでみんな写真撮ってるのか!?とようやく気づいた。(こういうところもつくづくアホっぽい。)28で気づくことではないはず。
ようやく本当に写真家になれた気がして、あらためて自分の写真を見たら、(これがまた驚きなんですが)なんというかすでにそういうことが写っていて、なんだかいろいろおかしな気持ちになっている。ドウシテシッテルノ!? みたいな。長い探検の果てに見つけた古代遺跡の一室で、原住民がカップラーメン食べてるみたいな気持ちと言いますか。
でも実際写真っていろいろな動機で撮るものだと思う。思い出を残そうと思って撮る人もいるし、純粋に記録として撮ることもある。可愛い子をあとでもう一度見たいとか、きれいな風景を写真にって思って撮ることもある。良い写真を撮るということ自体に価値を見出すこともある。撮る行為自体が楽しいということもある。それらは似ているようで感情としてはかなり違う。けれど、一枚の写真ということでみると、まあ結局そういうことすべてが写っているということなんだなぁと思う。見ている人の解釈でどうとでも取れるっていう意味かというと、僕はちょっとオカルティックなので、写真とはそういうものなのだ、という風に言ったほうが面白いと思うけれど、ま、そんなに違いはないかもね。
朝になったけれど、昨日少し寝すぎたので、このまま起きてようと思ってる。
思えば、すごく新しい気持ちになったときに、こうやって朝を迎えることが時々ある気がする。それはほんとうにすがすがしくて、素敵な朝(!)
家族の問題。
でも去年から今年にかけて、もう片がついたんだと思う。問いは隅々まで洗い出され、なんというか結局は水に流されてしまった。
あらためて整理をしてみると、前に付き合っていた人はもうすぐ結婚してしまうし、大好きだった祖母と飼い犬は死んでしまった。家族の問題というのはつまり自分の問題で、いまから思えば僕はずっとアップアップしていたし、時間の流れにいつも遅れているような気がしていた。それもこれもすべては自分の考えの子供っぽさからくるものだと思うと、わざわざ書くこともはばかられるほどに情けないことだけど、すぎたことは仕方がないと諦めるしかない。ありえないほどの時間がかかってしまったことも。
ともかく「ど」がつくほどにパーソナルな問題を20年あまりかけて解決してみたら、愛すべきはずだったものはみんな思い出になっていたということだ。
でもとにかく追いついた。少し前を進んでいた時間に。今日部屋を模様替えしながら、そうなのだと気がついた。
そうしたら少しだけ、去っていく時間が惜しくなっている。
できるだけ見ていたいし、忘れたくないと思っている。
こういう気持ちでみんな写真撮ってるのか!?とようやく気づいた。(こういうところもつくづくアホっぽい。)28で気づくことではないはず。
ようやく本当に写真家になれた気がして、あらためて自分の写真を見たら、(これがまた驚きなんですが)なんというかすでにそういうことが写っていて、なんだかいろいろおかしな気持ちになっている。ドウシテシッテルノ!? みたいな。長い探検の果てに見つけた古代遺跡の一室で、原住民がカップラーメン食べてるみたいな気持ちと言いますか。
でも実際写真っていろいろな動機で撮るものだと思う。思い出を残そうと思って撮る人もいるし、純粋に記録として撮ることもある。可愛い子をあとでもう一度見たいとか、きれいな風景を写真にって思って撮ることもある。良い写真を撮るということ自体に価値を見出すこともある。撮る行為自体が楽しいということもある。それらは似ているようで感情としてはかなり違う。けれど、一枚の写真ということでみると、まあ結局そういうことすべてが写っているということなんだなぁと思う。見ている人の解釈でどうとでも取れるっていう意味かというと、僕はちょっとオカルティックなので、写真とはそういうものなのだ、という風に言ったほうが面白いと思うけれど、ま、そんなに違いはないかもね。
朝になったけれど、昨日少し寝すぎたので、このまま起きてようと思ってる。
思えば、すごく新しい気持ちになったときに、こうやって朝を迎えることが時々ある気がする。それはほんとうにすがすがしくて、素敵な朝(!)