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  <title>ブログ</title>
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    <title>最近</title>
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    <![CDATA[更新が滞ってるときはブログくらい書こう。<br />
<br />
今年は「儀式と復活」というテーマでやってきたけれど、なかなか作品という形にできなかった難しいテーマだった。<br />
復活の前に死があって、死についても結構考えたけれど、復活という概念になるとそのＣ難度の飛躍に、掴めそうで掴めないまさに神秘性を感じた。だてにキリストしかやってないだけのことはあった。<br />
つまり昨日の自分と今日の自分は違うというレベルとはやっぱりなにかが違うということだった。<br />
死というテーマは扱いやすい。そこからいろいろなことを想起できる。が、復活はその比ではなかった。いつか分かる日がくるだろうか。<br />
<br />
政治についてだけど、僕は自衛隊もいらないと思う。他国に侵略されるなら侵略されたらいいと思う。だってその国の人も同じ人間だから、僕らが彼らより特別生き残らなければいけない理由はない。人類はどっちに向かっているの？　人類同士信じあう方向か、線をひいて外交戦略によって共存する方向か。軍事力を放棄して、他国を信じることは、これから人類が向かうべき正しい方向だと思う。それを誇りと信念をもって実行するのなら、世界になんと言われようと、僕は日本って素晴しいなって心から思える。<br />
これはかなりラディカルな意見だから、多くの人の賛成も得られないだろうことは分かっている。だから僕はほおづえをついて壁を見つめるしかない。なにかを待つように、どこかで少し怒って。<br />
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    <pubDate>Mon, 17 Dec 2012 13:43:08 GMT</pubDate>
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    <title>★</title>
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    <![CDATA[同情できないレベルの犯罪を犯した人間がいるとして、仮に彼（もしくは彼女）＝Ａが心から自分の罪を後悔し、改心したとして、僕らはそれをどのように判断すればいいのだろうか？<br />
もしＡが本当に誠実に自分の罪を認めたとすると、Ａは被害者に同情し自分で自分を許してはいけないと思うかもしれない。この場合、Ａは当然他の人からも許されるべきではないと考えて、自分が改心しているということを主張することはない。<br />
<br />
もし罪を許すことができるとすると、こういう誠実さを確認できたときだと思うけれど、しかしこの場合僕らがいくら許そうが、Ａの心は許されることはないだろう。ということは許すことは不可能なのか？<br />
<br />
じゃあ人が「反省してないので許せない！」と怒ったりするのは、そもそも「お前が自分自身で罪の意識で苦しむような状態にならなければ、安心して許せないじゃないか！」ということなのか？　だとしたらすごくむなしい。<br />
<br />
僕はよく反省したりして、そういう泥沼に陥る。「反省したから許して～。ごめんね～」って言える性格が欲しい。<br />
<br />
ちなみにこの性格、長男であることがすごく影響してると思う。]]>
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    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Thu, 01 Nov 2012 14:48:37 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>わからなさ</title>
    <description>
    <![CDATA[前回の文章で逡巡することが大切なのかも、と書いたけれど、ツイッターでアジカンの後藤さんが、「いまは思うよりもともかく行動することが大事なのでは」と書いていて、それを読めばそうなのかもなぁとも思う。それほどに逡巡には強度がない。だって迷っているんだもん。<br />
ただ言えることは、迷っている人は人は殺さない。でも逆に何も決めない。下手したら流されてしまう。胸をはって誇れるようなものではなさそう。さてどうしたものか？<br />
<br />
僕は今日「悪」について考えてみたいんだけれど、その前に面倒くさい話をしなくてはいけない。これは人に話して伝わった確率０％だからすでにすごく気が重い。<br />
それは、僕たちは本当に何かを決めているか？ということについてなんだけど、みなさんはどう思いますか？　基本的に僕たちは物事を決断して生きているということになっているけれど、僕はあるときよく考えてみて、もしかしてそうじゃないんじゃないかと思ったんです。（問題提起から我ながらやばさを感じる・・・）<br />
<br />
たとえば今日この文章を書いていることも、僕はよしブログを書こう！と思って書き始めたわけだけど、「よしブログを書こう！と思おう！」と思ったわけではなくて、それは突き詰めれば、「よし、ブログを書こうと思おう！と思おう！」と思ったわけでは当然ないということで。思考の元の元をたどっていけば、僕らはおよそ無意識になにかを考えた気にさせられているとしか思えない・・・。さて、さぞ「まじこいつ何を言ってるんだ？」と思っていることと思いますが、ともかく僕らは本当になにかを考えるということができるんだろうか？　考えることというのは条件反射のような性質があって、考えることをあらかじめ&ldquo;考えておくこと&rdquo;はできないのでは？ということなんです。僕はこれを思いついた時、まじ大発見だ！と思った。そして、なんだ自分の失敗もなにもかも、僕のせいじゃないんだと思ってすごく救われた。<br />
<br />
さて、それで「悪」について考えてみると、たとえば殺人を犯した人がいるとして、なぜその人は殺人を犯したんだろうかと考えると、その人のなかには人を殺すか殺さないかという選択肢があって、殺すを選んだということなんだと思う。けれど、なぜその選択肢を思いついたのか？　その選択肢はどこからきたのか？　きっとその人は、僕は将来人を殺すか殺さないかを考えるような人生を送ろうと思って生きてきたわけではなくて、ありときふと選択肢が目の前にあって、そして殺すほうを選んだんだと思う。ではやはりなぜその選択肢があったのだろうか？　人は自ら自分の思考をクリエイトすることができるのだろうか？　もしできないとしたら、その人は本当に悪なのか？　僕はなぜ人を殺そうと思わないのか？　僕がその人とまったく同じ人生を歩んでいても、僕は人殺しをするような人間にはならないと言えるだろうか？　もし仮にそれが言えないとするならば、（僕は言えないと思うけれど、）僕はたまたま殺人者ではなかったということでしかないのではないだろうか？　そしてくじ引きをひくように、この社会には一定数のひずみがあって、だれかはたまたま人を殺してしまうのではないだろうか？　だとしたら僕らは悪を憎めるのか？　僕らはなにか努力をして、悪を克服したのだろうか？　偶然ではなく必然だと言えるなにかがあるだろうか？<br />
<br />
いじめの問題があって、どんな原因があれいじめをした側は絶対に許してはいけないとよく聞くけれど、僕はいじめをした人たちを憎めない。憎みたいけれど憎めない、それは僕かもしれなかったのだから。だって原因はかならずあって、原因がある以上、僕は憎めない。<br />
反対の側に、いじめれて死を選ぶ人がいて、どんなにつらくても死を選んではいけないということもよく言われるけれど、辛くても死を選ばなかった人というのはそういう人であったということで、辛くて死を選んだという人は、やはり死を選んだ人なのだと思う。死を選ぶという可能性がある以上、やはり何割かは死を選ぶ人がいるんだと思う。その人たちはどういう人かなって思うと、僕はきっと繊細で世界は美しいと願っている人だと思う。理不尽な世界を受け入れられないような、ある意味頑固で優しい人だと思う。僕はその人にむかって死を選んだことはあなたの間違いですとは言えない。あなたのような人が生きていける世界でなくてごめんなさいとしか僕には言えない。<br />
<br />
では、僕たちは「悪」についてどう考えなくてはいけないのだろうか？　仮に僕らが正しかったとしても、僕らの可能性として「悪」はあって、それはつまり「悪」は僕らだったのかもしれなくて、それについて僕らは考えなくていけないと思う。<br />
だが許す。すごく憎い、許せない、だが許す、しかないと思う。<br />
<br />
テレビを見ていると「許してはいけない」が主流のようだけど、「許すこと」についても考えてみたい。だって許すことができるのは被害者だけで、そこにはきっとすごく深いものがある。北朝鮮が核ミサイルを打って日本がなくなってしまった。中国が日本なんか足元にも及ばないくらい経済発展をとげて、日本は中国の属国のようになってしまった。無差別殺人によってあなたの家族が殺されてしまった。<br />
<br />
だが許す。それってどういうことだろうか？<br />
<br />
※とりあえず当初思っていたよりもずいぶん陰気臭い文章になって泣いてます。悲しい。]]>
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    <pubDate>Fri, 12 Oct 2012 15:16:23 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>美しさ</title>
    <description>
    <![CDATA[危険を知りながらお金のために原発を推進した人を僕たちは批判するけれど、僕にはどうしてもそれができない。もちろんテレビを見ながら、怒ったりするんだけれど、いつも思考のどこかでひっくり返って裏返る。<br />
<br />
現代はすでに飢餓を克服したらしい。世界中から飢餓をなくすだけの食糧を僕らはきっと一つの都市で作り出すことができる。でもどうしてそれが行われていないだろう。<br />
なぜ日本はある程度豊かで、そうでない国はそうでないのだろうか。僕らはそうなれるだけの価値があって、そうでない国にはそうなるだけの責任があるのだろうか？　もしそれが資本主義経済のシステム的欠陥だとしたら、そのシステムのなかで勝ち組を演じ、食べたいものを食べ、好きなことをして遊んでいる僕たちは、そうでない国の誰かを殺しているのではないだろうか？<br />
何十年後かの未来で、僕たちは利権のために原発を推進した人たちと同じように、きちんと正確に批判されるのだろうか？そのパンをくれれば命が助かると知っていて、あなたはそのパンを食べていましたよね？と。<br />
<br />
僕が贅沢のために買ったプリンやアイスで、一人の救えたかもしれない命があることはもはやほとんど事実で、レンタカーを借りて写真を撮りに出かけるのをやめれば&hellip;。だから僕はそれを知っていて、いまも誰かを殺している。<br />
<br />
原発を推進した人たちと、僕は話をしたらきっと馬は合わないだろうけど、僕のなかにも同じ考えは小さくともたしかにある。僕は見知らぬ誰かよりも、友達や家族が得をすれば少しだけ嬉しいし、見知らぬ誰かが何人も死ぬことになっても、弟や妹に生きていてほしい。実際そう行動するかどうかではなくて、そういう気持ちがたしかにあって、僕のなかにもたしかにあるのなら、それを行動にうつす人はきっとどこかにある一定数存在すると思うのだ。生物学的に考えれば、それはたまたま僕ではなかったけれど、僕だったかもしれないということだ。<br />
<br />
<br />
「知らないことが罪」という言葉があって、僕はこの言葉がすごく嫌いだ。僕らは誰を助けられるだろうか？　そこには近さと遠さの問題がある。僕らは世界を同時に救うことはできないから、より近い人を助けることしかできない。自分にとって近さとはなにか、考えなくてはいけない。けれどワンコインで救える命があって、エアコンのスイッチをＯＦＦにするだけで救える自然があることを知らないことがいけないことだと、僕は思えない。そうじゃなければ、僕らは罪だらけになって、一生を贖罪にあてなければいけない。<br />
<br />
いつもうまく言えないけれど、僕が言いたいのは、つまり僕はいまも誰かを殺しているかもしれないけれど、でもそれは悪いことじゃないということ。<br />
<br />
みんながハンバーガーを食べるのをやめれば、アマゾンの森林伐採を止められるのだとしたら、僕はただちにみんなにハンバーガーを食べさせないように運動をしなくてはいけなくて、その時点で映画を撮る夢を捨てるかどうかを選ばなくてはいけなくて、でもその間にも性差別によって苦しむ女性たちがいて、飢餓で死んでいく人々がいて、絶望のうちに自殺してしまう人々がいて、知らないことが罪とはどういう意味だろう？<br />
<br />
僕には選べない。自分の人生をなにに充てて死んでいくのか、僕には選べない。<br />
僕もしばらくそんな馬鹿げたことがと思ってなかなか口に出せなかったけれど、いまではこう思っていて、それは何かを決めることよりも、逡巡することのほうが大事なんじゃないかなってこと。逡巡。ほんとうに重要な問題には答えはないから、僕らは立ち止まり、さまざまな可能性を考え、ときに罪の意識にさいなまれながら、逡巡する。なにも決められずたしかなことも言えずに。<br />
<br />
考えて考えて、いつも結局答えはでない。人は美しいと誰かが言って、僕もそうだなと思うから、誰も悪くないんじゃないかと思う。もし誰かが悪いのなら、それは僕らも悪いのだ。だってその悪は僕らの一つの可能性なのだから。人の可能性なのだから。<br />
<br />
&ldquo;あなたはそれを美しいと言ったよね？&rdquo;]]>
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    <pubDate>Tue, 02 Oct 2012 16:05:10 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>甘み</title>
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    <![CDATA[おにぎりがおいしい。仕事の昼休みに食べるおにぎりがおいしい。<br />
<br />
お米のうまみ。お米のうまみはつまるところ甘みだなって思う。<br />
<br />
おにぎり甘いよ。おいしいよ、おにぎり。<br />
<br />
なんだこの日記は・・・]]>
    </description>
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    <pubDate>Mon, 01 Oct 2012 13:41:08 GMT</pubDate>
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    <title>Death</title>
    <description>
    <![CDATA[ハクリヨクコが死んだので自由だ。嬉しい。<br />
あとperfumeの新しい衣装が可愛くて嬉しい。<br />
<br />
写真を撮っているとお金がなくなるし、お金を貯めようとすると写真が撮れない。こんな簡単なジレンマにかれこれもう5年ははまり続けている。そしてやっとのことで撮っている写真はぴったりなんの役にも立っていない。それなのにまったく写真をやめるつもりはないし、反対に地球から存在が抹消されてしまうという様子もない。変だ。生きていていいのだろうか？　僕は何かに対して究極的に怒っていて、だからこんな無意味な作業を繰り返しているのだろうか？　別に役に立ちたいなんて思っていないんだ。<br />
<br />
写真家という職業がもし成立するのだとしたら、僕はその辺の写真家よりも価値のあることをしているつもりだ。でも写真って意味あるの？ともよく思う。<br />
見てくれる人がなんとなく記憶に残って気になったり、たまに見てそしていつしかそれが思い出になっていくようなことが、僕にとっては唯一の価値だ。そういうものになれば良いなと思っている。<br />
<br />
<br />
<br />
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    <link>http://fukamidoripro.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/death</link>
    <pubDate>Tue, 24 Jul 2012 09:22:02 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>Memories,Distance</title>
    <description>
    <![CDATA[『Memories』を見にホームページを訪れてくれる人がいて嬉しいです。<br />
カウンターの数字でしかわからないけれど、今までで一番見てもらえたんじゃないかと思う。自分でもたまに覗くけれど、見るたびにほかの人が撮った写真みたいに見えるところが、とっても嬉しい。<br />
<br />
最近は星野道夫さんの本をかばんに入れて持ち歩いている。星野さんの文章は澄んでいて、優しい。ー５０℃にもなるアラスカの冬が、寝袋につつまれて、あたかも暖かく気持ちの良いもののように感じられる。広大な大地のなかで偶然にしか出会うことのできない何万頭というカリブーの群れの季節移動、文明の流入によって急速に変化していくインディアンやエスキモーの生活と文化、史上最後の飾りものでも資料でもないトーテムポールが朽ち果てていく姿。今度はなにを話そう、僕にどんなことが語れるだろうか、文章の前で思案してくれている星野さんの姿が見えるようなところも好きだ。慎重に、立ち止まって考えることができる。そこに優しさを持てるということはなんと素晴らしいことだろうか。<br />
考えている時間にこそ、その人らしさがあるような気がする。それはなにを成したかよりも、神聖で不可侵な&ldquo;私&rdquo;であり、&ldquo;誰か&rdquo;である。僕は&ldquo;私&rdquo;のなかに未知の部分を見つけたり、決して知ることのできない&ldquo;誰か&rdquo;を大きく掴まえたりすることが好きだ。<br />
<br />
話がそれちゃった。<br />
星野さんはなぜアラスカに惹かれたのだろうか？　そうした運命のからくりについては、きっと誰にも分からない。星野さん自身も分からない。ただそれを感じることができ、声をきくことができただけなのだと思う。けれど、星野さんにとってきっとアラスカは近かったんじゃないかなと思う。アラスカが近いというのは僕たち日本人の感覚としては普通ではないけれど、星野さんにとっては身近でなによりもまず愛すべきものであったのだ。人にはみんな、どうしてかわからないけれど身近に感じるものというのがあるんじゃないかと思う。それは幼少期の記憶やトラウマや、心理学的な説明も超えた何かだと思う。<br />
<br />
アラスカを抱きしめる方法として写真家を選んだ星野さんのような気持ちで、僕も写真を撮りたい。何を撮るかは、ほとんどすべてで、そして結局は何を撮っても同じなのだ。僕にとっては限りなく身近で、愛すべきもので、そして同時に不思議に満ち溢れているものたちを、カメラをもって踊ってまわりたい。そしていつか振り返って、ああ自分もたしかに生きていたんだなと思いたい。そんな風に友達や景色を撮れたらいいなと思う。<br />
<br />
最近うちに妹が彼氏と飼っていた猫がいます。しばらく預かっている。お腹をぺたーっと床につけて、太った棒のようになるところや、憧れるように外をじーっと眺める姿がなんとも言えず可愛らしい。猫は机や押し入れだと思っていたところが、飛び乗り、歩き回れるところなんだと教えてくれるので、見慣れた家のなかが違ってみえる。そういうところもとても素敵だなぁと思う。のんちゃんと呼ばれているその猫を見る視線に、ポポを見ていた自分を思い出して、そういうところもとても嬉しい。<br />
<br />
星野道夫さんの本まだ全部読んだわけではないけれど、『旅をする木』というエッセイが、すべての篇が美しく思慮に満ちていておすすめです。]]>
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    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Wed, 30 May 2012 17:02:44 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>もう少しで</title>
    <description>
    <![CDATA[もう少し、あと少しで、写真のレッスンから解放される気がする。<br />
この亀のような歩みを呪ってしまいたい。<br />
写真がうまく撮れるようになったら、いっぱい撮りたいものがある。<br />
そしてもう写真のことはあんまり考えず、物語のことばかり考えられるようになるかもしれない。<br />
そうなったらますます楽しい。<br />
<br />
僕のなかには順番があって、魂があって、カメラがあって、対象があって、写真がある。写真があって、モンタージュがあって、物語があって、映画がある。魂とカメラと対象とモンタージュについてはなんとなく分かってる。だから、もう少しで写真が撮れるし、少し背伸びをすれば映画も撮れる。<br />
<br />
もう一つの順番は、自分があって、家族があって、友達があって、世界の人々がある。順番に納得していきたいし、できることなら手を差し伸べたいって思ってる。]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://fukamidoripro.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E3%82%82%E3%81%86%E5%B0%91%E3%81%97%E3%81%A7</link>
    <pubDate>Tue, 08 May 2012 14:32:13 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>夏の庭</title>
    <description>
    <![CDATA[そういえば・・・。前の前の前の日記で予告だしたのに、そのことにまったく触れていないという・・・。でももうそんなに書く意味がないので、たたみますね。別に冗談で予告したわけじゃないんだけど。<br />
<br />
今日は3年間放置されていた祖母の家の庭を片付けに行ってきました。あきる野市にあって、都内だけど結構遠い。高速がスムーズに走ればそこそこ早い。<br />
庭に一歩足を踏み入れると、季節はもう新緑というよりは夏のよう。いまにも虫たちがわっと踊り出してきそうな気配。バケツに溜まった水からは明日にでもボウフラが湧きだしそうな気がする。ちょっと前に下見していたこともあり、分かってはいたけど、庭はともかくボーボー。足の踏み場もない。3年前に祖母がなくなったタイミングで、植木屋さんにほとんどの木を切ってもらっていて（僕はすごくがっかりしたのですが）、その切った木片が庭中に敷き詰められている、そしてその間から草や木がぴゅんぴゅんと伸びてきているという状態。造園のバイトをしているから、仕事モードで入ればなんてことはないけど、私服にスニーカーだと「かなりヤバイ」と思わせる域に達している。<br />
片付けるのにもう1日はかかるし、ならべて積み上げた木片もすでに３つの山になってしまっている。<br />
唯一残されているしだれ梅がおばけのようになっていて、これも剪定してすっきりさせたい。<br />
<br />
父親はこの土地を売ってしまおうと思っている。そのお金をうまく運用したほうが、空家をほったらかしにしておくよりはよっぽど経済的である。止めたいが、僕には説得するだけの財力がない。<br />
どんなにボロボロでもこの家が好きなんだけど。庭も。木がまるでなくなってしまっても。<br />
<br />
たまに飛んでくる足長蜂が怖かったけど、たとえ片付けでも植物に触っている仕事は苦にならない。結構楽しい。新しくこんな庭にしたいなとか考えたりして。夢のようだ。<br />
祖母が生きているうちにもっと同じ庭を見たかったのに。どうしてそうしなかったんだろう。もう戻れないから、この気持ちは後悔の渦のなかをいつまでも回り続けるしかない。後悔は悲しい。<br />
この庭が売られてしまったら、10年後の僕は「なぜあのとき・・・」と後悔するのだろうか？？]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://fukamidoripro.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%A4%8F%E3%81%AE%E5%BA%AD</link>
    <pubDate>Sat, 28 Apr 2012 15:49:17 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>模様替え</title>
    <description>
    <![CDATA[多くの人が10代のうちに、遅くとも20歳そこそこで片をつけている問題にこの年までかかってしまった。<br />
家族の問題。<br />
でも去年から今年にかけて、もう片がついたんだと思う。問いは隅々まで洗い出され、なんというか結局は水に流されてしまった。<br />
<br />
あらためて整理をしてみると、前に付き合っていた人はもうすぐ結婚してしまうし、大好きだった祖母と飼い犬は死んでしまった。家族の問題というのはつまり自分の問題で、いまから思えば僕はずっとアップアップしていたし、時間の流れにいつも遅れているような気がしていた。それもこれもすべては自分の考えの子供っぽさからくるものだと思うと、わざわざ書くこともはばかられるほどに情けないことだけど、すぎたことは仕方がないと諦めるしかない。ありえないほどの時間がかかってしまったことも。<br />
ともかく「ど」がつくほどにパーソナルな問題を20年あまりかけて解決してみたら、愛すべきはずだったものはみんな思い出になっていたということだ。<br />
<br />
でもとにかく追いついた。少し前を進んでいた時間に。今日部屋を模様替えしながら、そうなのだと気がついた。<br />
そうしたら少しだけ、去っていく時間が惜しくなっている。<br />
できるだけ見ていたいし、忘れたくないと思っている。<br />
こういう気持ちでみんな写真撮ってるのか！？とようやく気づいた。（こういうところもつくづくアホっぽい。）２８で気づくことではないはず。<br />
ようやく本当に写真家になれた気がして、あらためて自分の写真を見たら、（これがまた驚きなんですが）なんというかすでにそういうことが写っていて、なんだかいろいろおかしな気持ちになっている。ドウシテシッテルノ！？　みたいな。長い探検の果てに見つけた古代遺跡の一室で、原住民がカップラーメン食べてるみたいな気持ちと言いますか。<br />
<br />
でも実際写真っていろいろな動機で撮るものだと思う。思い出を残そうと思って撮る人もいるし、純粋に記録として撮ることもある。可愛い子をあとでもう一度見たいとか、きれいな風景を写真にって思って撮ることもある。良い写真を撮るということ自体に価値を見出すこともある。撮る行為自体が楽しいということもある。それらは似ているようで感情としてはかなり違う。けれど、一枚の写真ということでみると、まあ結局そういうことすべてが写っているということなんだなぁと思う。見ている人の解釈でどうとでも取れるっていう意味かというと、僕はちょっとオカルティックなので、写真とはそういうものなのだ、という風に言ったほうが面白いと思うけれど、ま、そんなに違いはないかもね。<br />
<br />
朝になったけれど、昨日少し寝すぎたので、このまま起きてようと思ってる。<br />
思えば、すごく新しい気持ちになったときに、こうやって朝を迎えることが時々ある気がする。それはほんとうにすがすがしくて、素敵な朝（！）]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>http://fukamidoripro.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E6%A8%A1%E6%A7%98%E6%9B%BF%E3%81%88</link>
    <pubDate>Thu, 26 Apr 2012 21:54:39 GMT</pubDate>
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